文学が運用の参考になるのは、さまざまな人間の思考を検証できることである。運用は人間がやるものである。(機械の参加も増えているが。) その人間が何を考えているのか?文学は、それを雄弁に語ってくれる。例えば、「カラマーゾフの兄弟」に出てくる多くの登場人物は、とにかく喋る。自分の考えを話す。人間の思考は、根本的なところでは、昔も今もそんなに変わっていないことに気付かされる。名作と呼ばれるものは、人間描写が優れている。主人公がどういう論理で物を考えているかを明らかにしようとする。そういうことを知ろうとすることは、運用の陰に隠れている、予測が難しい人間の心理を理解するのにとても役立つ。
ルキノ・ヴィスコンティの「山猫」(1963) 。イタリアの貴族の没落の話である。ヴィスコンテ自身が貴族だったので、再現度が半端ない。まるで、絵画のような映像である。最後の舞踏会のシーンは現在では再現不可能である。しかし、面白いのは、貴族をノスタルジーとして描いているのではなく、庶民や新興成り上がりなど色々な人たちの視点で描いているところである。ヴィスコンティは、若い頃に共産党に入り、初期に貧しい漁民を主人公にした「揺れる大地」を監督している。「山猫」以降、貴族や上流階級を主人公にした映画が多くなるのだが、批判的に描いている。淀川長治が絶賛する「ルードウイッヒ」はその頂点である。(暗くて少し異常な内容で、さすがにお勧めできません。)この複雑な人間観が、ヴィスコンティの映画を唯一無二のものにしている。